430 Kings Road
1971 - 1980
1960年代後半のロンドンで最も人気のファッションといえば、ヒッピー・ムーブメントでした。しかし、若き日のヴィヴィアン・ウエストウッドやマルコム・マクラーレンにとってこれらは退屈なトレンドで、むしろ反逆的な生き方や典型的な1950年代らしい衣服や音楽、骨董品といったものに興味を惹かれていました。
そして当時マルコムのためにテディ・ボーイズのカルチャーを反映した衣服を制作していたヴィヴィアンは、ロンドンのチェルシー地区キングスロード430番地に小さなブティックをオープンし、「Let it Rock」と名付けました。1971年のことです。
その1年後、ヴィヴィアンの次の興味はバイカーの衣服やジッパー、レザーに移っていました。これに伴ってショップもスカルとクロスボーンのデザインに一新し、店名を「Too Fast to Live, Too Young to Die」と改めました。
ヴィヴィアンとマルコムはそこで挑発的なスローガンをプリントしたTシャツをデザインし始め、その結果1959年に成立した猥褻出版物法により起訴されることとなります。これに対して、二人はショップを再ブランディングし、更にハードコアなデザインのTシャツを制作し対抗しました。
1974年には「オフィス用ラバーウェア」というスローガンを掲げ、「その時、英国で流行っている何ものでもない」店として店名を「Sex」に改名しました。
READ MORE >
THE EARLY YEARS
1981 - 1987
1984年、ウエスト・ロンドンのショップ「Nostalgia of Mud」(現在の「Worlds End」)を一時的に閉店し、ヴィヴィアンはイタリアに移住します。
また、同時期に森 英恵によるグローバルファッションアワード「Best of Five」にカルバン・クライン、クロード・モンタナ、ジャンフランコ・フェレらと共に招待され、春夏コレクション「Hypnos」を東京で発表しました。
1986年には「伝統を未来に伝える象徴」として初めてORBロゴが登場しました。
Vivienne Westwood社のマネージング・ディレクターにカルロ・ダマリオが就任し、1988年にはロンドンのデイビス・ストリートに新たなブティックをオープンします。
ヴィヴィアン・ウエストウッドとマルコム・マクラーレンが初めて公式にキャットウォークショーを共同で実施した1981年秋冬シーズン「Pirate」コレクションでは、ガレオン船などの海賊船をモチーフにした「Worlds End」の美学を表現しました。ゴールド、オレンジ、イエローを基調としたロマンティックなルックで満たされたこの「Pirate」コレクションは、ヴィヴィアンの存在感をロンドンのファッションシーンに鮮烈に焼き付け、メゾンの歴史の中でも特別なものとなりました。
「私たちはブランドにおいて重要なイノベーションを見つめ直す為に立ち止まることもありましたが、それ以外は常にコレクションを通じてアイデアを引き継ぎ、発展と躍進を続けているのです」
「Pirate」コレクションは「略奪の歴史と第三世界」をテーマに歴史的な古いドレスを研究し、その原初のシルエットを保ちながらファッションに落とし込むというものでした。中でもネイティブ・アメリカンの柄に着想を得た「Pirate」のパンツはルーズな腰回りのデザインで、これは当時最先端の流行だったヒッピースタイルや「タイト・アス」と呼ばれたファッションとは対照的なものでした。またトップスは着用するとネックが左右非対称となるデザインでした。
READ MORE >
THE PAGAN YEARS
1988 - 1992
1989年、ジョン・フェアチャイルドの著書「Chic Savages」において、ヴィヴィアンはアルマーニ、ラガーフェルド、サンローラン、ラクロア、ウンガロとともに世界のトップ6デザイナーの1人として紹介されました。
また、この年にウィーン応用美術大学のファッション学教授に就任し、1991年までファッション学教授を務めました。
1990年12月にロンドンのメイフェア地区にある、デイヴィス ストリートに新たなブティックをオープンし、さらに1990年、1991年の2年連続で英国ファッション協議会より「Fashion Designer Of The Year」を受賞しました。
1992年にはバッキンガム宮殿においてエリザベス女王陛下より大英帝国勲章 を授与され、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)では名誉シニアフェローに任命されました。ウェディングドレスのコレクションを発表したのもこの時期のことです。
1993年には、1988年にウィーンで教鞭をとっていた時出会ったアンドレアス・クロンターラーと結婚します。
この時期、ヴィヴィアンにとってのヒーローはパンクスやストリートチルドレンから、上流階級をパロディにした服を着るタトラー・ガールへと変化します。そして訪れた偶然の出会いが、彼女のキャリアにおいて最も重要で影響力のあるコレクションのひとつ、1987年秋冬コレクション「Harris Tweed」にインスピレーションを与えました。
「このコレクションのあらゆるアイデアは、ある日地下鉄で見かけた小さな女の子から盗んだものなのです。彼女は14歳にも満たないくらいでした。バレエシューズの入ったバッグを持ち、ハリスツイードのジャケットを着た小さな三つ編みのお団子ヘアの女の子の佇まい自体がとてもクールだったのです(ヴィヴィアン)」
READ MORE >
ANGLOMANIA
1993 - 1999
1992年から1993年にかけて、Vivienne Westwoodとスウォッチによるコラボレーションウォッチ「Putti」と「ORB」が登場。
また、ロンドンではコンジット ストリート43番地に新たなブティックをオープンしたほか、ヴィヴィアンはベルリン芸術大学のファッション学教授に任命されました。
1993年秋冬コレクション「Anglomania」では、ヴィヴィアンはその創造性を注ぎ込んだオリジナルのタータンチェックを制作。夫であるアンドレアス・クロンターラーの名に因み、MacAndreasと名付け、ブランドの象徴としました。通常、タータンチェックを公式に登記するためには200年必要とされていますが、スコットランドの老舗タータンメーカー「ロキャロン社」がこれを即承認したことで、ヴィヴィアンの大きな功績の1つとなりました。
1996年には、ファッションとアートの関係を検証するチャンネル4のテレビ番組シリーズ「Painted Ladies」にヴィヴィアンが出演し、中世、ルネッサンス期の古典美術に描かれた衣装を紹介しました。また、同年のミラノ・コレクションで「Vivienne Westwood MAN」を発表したほか、イギリス国外への最初の出店となるライセンス・ブティックを東京にオープンしました。
1997年、ロンドンのコンジット ストリート44番地に新たなブティックをオープン。
1998年、アーカイブに着想を得たディフュージョンライン「Anglomania」を発表。ブランドのアイコンであるテーラリングとドレープシルエットに敬意を表した若々しいコレクションは、「SEX」、「Pirate」、「Mini-Crini」、「Bondage」といったコレクションからピックアップしたスタイルで構成されていました。
同年、ヴィヴィアン・ウエストウッドの手掛けた最初のフレグランス「Boudoir」を発売。これは「世界の鼻」として有名なドラゴコ社の調香師、マーティン・グラと共同で開発したものでした。「私の香水は『Boudoir(ブドワール)』と呼ばれています。ブドワールとはドレッシングルーム、ドレスアップする場所であり、同時に身に纏ったものを脱ぐ場所をも意味します。それは女性の空間、女性が自分自身と親密な関係になる場所、自分の欠点と可能性に向き合う場所の象徴です(ヴィヴィアン)」
1999年、サヴィルロウのテーラリング、フレンチクチュールに対するヴィヴィアンの探求が融合したプレタポルテライン「Vivienne Westwood RED LABEL」が誕生。
1999年、Vivienne Westwood最初のニューヨーク・ブティックがオープン。
READ MORE >
EXPLORATION
2000-2016
2000年4月から6月までロンドン博物館にて「Vivienne Westwood:ロミリー・マカルピン コレクション」が開催されました。
2001年、公式ウェブサイトwww.viviennewestwood.comを開設し、翌2002年には香港に1店舗、韓国にも2店舗、ブティックをオープンしました。
2002/03年秋冬、Cosa Coma Commeのショップを通じて、Vivienne Westwood X Commes des Garçonsとのコラボレーションを日本とミラノで発表しました。そして2003年には、英国のファインチャイナ、磁器、高級アクセサリーメーカーであるコールポートとコラボレーションし、Westwoodホームコレクションを発表しました。この年、イタリアのミラノにVivienne Westwoodのフラッグシップブティックをオープンしたほか、3月には、日本のVivienne Westwood婦人服のフラッグシップブティック を青山にオープンしました。英国ファッションエクスポートアワードのデザイン賞を受賞したのもこの年のことです。
2004年にはヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で、ヴィヴィアン・ウエストウッドのファッションへの貢献を称える回顧展が開催されました。この種の展覧会は博物館にとっても初めてのものでした。
モエ・エ・シャンドン・ファッション・トリビュートは、ヴィヴィアン・ウエストウッドをヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で初めて個展を開くヴファッションデザイナーとして称えました。
2005年、ラグとクッションをデザインするThe Rug Companyとの長期的なコラボレーションをスタートしました。
2006年、ヴィヴィアンにとって二度目となるバッキンガム訪問を果たし、当時のウェールズ王子チャールズ皇太子殿下から叙勲を受けました。
2007年のブリティッシュ・ ファッション・アワードにおいて、ヴィヴィアンがファッションデザイン部門の優秀賞を受賞しました。
2008年10月、日本の表参道にVivienne Westwood紳士服のフラッグシップブティックをオープンしました。
2010年にはフィリップ殿下デザイナー賞を受賞しました。Ethical Fashion InitiativeとArtisan Fashionを支援する国連とのパートナーシップとして、Made in Kenyaを発表したほか、Climate Revolution、ヴィヴィアンの活動家としてのチーム、Vivienne’s activist teamとそのウェブサイトも立ち上げました。
READ MORE >
ANDREAS KRONTHALER FOR VIVIENNE WESTWOOD
2016 - 現在
2016年、ニューヨークとパリにフラッグシップブティックをオープン、また翌2017年4月、銀座シックスにパリと同コンセプトのフラッグシップブティックをオープンしました。
2018年、慈善団体 「Cool Earth」との共同支援によりBURBERRYとのコラボレーションを発表しました。「Cool Earth」は絶滅の危機に瀕している熱帯雨林の保護し、地球温暖化と闘い、生態系の保護や地元の人々への雇用提供などを支援するために資金調達を行う、英国を拠点とする非営利団体です。同年11月、香港のパターソン通りにフラッグシップブティックをオープンしました。
2019年4月、ASICSと三年間に渡るコラボレーションをスタート、翌5月にはBUFFALOとのラボレーションをスタート、また9月にはVANSとのコラボレーションであるANGLOMANIAカプセルコレクションを発売しました。
2020年7月、EASTPAKとコラボレーションしたバッグとアクセサリーのコレクション 「SAVE OUR OCEANS」を発売しました。この年、「Earth Day 2020」に向けて、非営利環境団体Canopyと提携し、自然を害さない生地を選択することによって森林を保護するキャンペーンを行いました。
2021年12月、上海と北京にフラッグシップブティックをそれぞれオープンしました。
Vivienne Westwoodメインラインの実質的なショーは、2019年秋冬ロンドン・ファッション・ウィークで発表されたのを最後に、以降は環境上の理由からデジタルメディア上で発表しています。
2016年秋冬のパリ・ファッション・ウィークは、ブランドにとっての新しい、刺激的な章の幕開けとなりました。ヴィヴィアンの長年の夫でもあるアンドレアス・クロンターラーが、Gold Labelに代わり「Andreas Kronthaler For Vivienne Westwood」 という名で、初めて公式にコレクションを発表しました。Vivienne Westwoodのメインラインは、継続して年2回のコレクションを別に発表しています。
「私は25年以上ヴィヴィアンと共にデザインしてきました。今回私の名を加える意図は、他のラインとの違いを強調し明確にするためです。私たちの仕事の仕方にそれほど大きな変化はありませんが、このラインは新しい方向性をもたらすでしょうし、今後がとても楽しみでなりません(アンドレアス・クロンターラー)」
「ここ何年にも渡りアンドレアスは、ブランドにおいてより重要な責任を担っており、私はその事実が皆様に認識されることを願います(ヴィヴィアン・ウエストウッド)」
「私たちはコレクションを明確にし、商品量を減らすために、ラインを分けることを選びました。Gold LabelはAndreas Kronthaler for Vivienne Westwoodとなり、ヴィヴィアンはユニセックスを含むVivienne Westwoodメインラインをデザインしています(アンドレアス・クロンターラー)」
READ MORE >